初めまして、Toki と申します。
ブログを読んでいただきありがとうございます。
このブログの目的は、
順風満帆に生きてきて、社会人になったけど…
社会、思ってたんと違う!
でも、会社にを辞める勇気もないので
お金のためだけに、つまらない会社でダラダラ仕事を続けている。
という、かつての私のような人へ向けて
自分の力でお金を得て生活できる、フリーランスという道を届けること
です。この記事では、私がなぜ
「休職して絶望したからwebフリーランス目指す」
というブログを書こうと思ったか、自己紹介を通して説明していきます。
小学生時代

小学生時代の私は、活発な子供だったと思います。
特に低学年の頃は、放課後はいつも公園の鉄棒で遊んでいました。
ついたあだ名は鉄棒小僧。
今思えば、女の子に対して酷いあだ名ですね。笑
いつも公園にいるので、公園で友達ができることもしばしば。
名前はすぐに忘れてしまいますが。
学校でも、宿題を忘れたり遅刻するのは日常茶飯事・怒られてもすぐに忘れる。
客観的に見れば、結構だらしない子供だったと思います。
しかし私としては、鉄棒が上手で友達もたくさんいるし勉強もできるので、自己肯定感は青天井・自信を持って堂々と生きていました。
小学4年生の頃、公園で仲良くなった近所のお姉さんが中学受験に成功して、隣の市にある中高一貫の学校に進むことを知りました。
そのお姉さんから「ここの中学に行けば、高校受験しなくていいんだよ」と聞き、
「なんかコウコウジュケンって大変らしい」
という知識だけ持っていた私は、軽率に進路を決定。
自信満々に生きていたので「落ちるかもしれない」などの不安は全くなしに中学受験。
無事に合格したため、高校受験をしなくて良い人生を手に入れました。
中学生時代

「中学受験をするなんて、ガリ勉ばっかりなんだろうな・・・友達出来るかな・・・」
などと自分のことを棚に上げ、不安いっぱいで迎えた入学式でした。
そんな心配がにじみ出ていたのか、公園で遊ぶよりもプリクラやカラオケで遊ぶのが主流になったからか、友達はあまりできませんでした。
勉強面では、中学に入るとテストの点数で順位が貼り出されるようになり、私は大体真ん中くらいの順位ということが判明。ショックでした。
ドラえもんのポケットにも入りきらなかったくらいの自信はシュルシュルとしぼみ、私の過剰な自信は人並みに落ち着いたと思います。
しかし、宿題は中々提出しないし遅刻癖も治らず、だらしないのは相変わらずでした。
部活は、平日のみ活動する卓球部に入りました。
ボーイスカウトをしていたので、平日は部活・土日はボーイスカウトの活動(キャンプなど)に出かけるという生活でした。
そうしているうちに中学3年生になり、私の世界が広がるきっかけとなるイベントがありました。
それはボーイスカウトのイベントで、日本中のスカウトが一か所に集まり、10日程度のキャンプするというものです。
私は、全国各地から集まった同年代と話すことで、初めて方言の存在を認識しました。
自分と変わらない年齢の子達が、標準語でも大阪弁でもない、初めて聞くけどなぜか意味が通じる、だけど日本語とは到底思えない方言を話しているという不思議に、衝撃を受けました。
相手から見ると、自分も方言を話しているのか気になって、他県の子へ
「ウチは?!訛っとるけ???」
と聞いて、その場にいた全員に爆笑されたのは良い思い出です。
高校時代

高校でも、相変わらず
・成績は真ん中くらい
・宿題はできず遅刻もするけど授業は真面目に受ける
・部活は緩い
・土日はボーイスカウトの活動
という生活を2年生まで続けました。
大体の生徒は国立大を目指す進学校だったので、3年生になると、クラスも先生も受験一色に染まります。
この時の私は、他県の人と話した時の衝撃から全国各地の方言に、そこから派生して地域の文化に興味を持っていて、”色々な所に転々と移り住んで、全国各地・世界各地で数年ずつ過ごす”という人生に憧れていました。
しかし、親や先生には
「意味が分からない」
「そんなこと普通しない」
「受験のノイズになるからその考えはしまっておきなさい」
と言われてしまい、しぶしぶ断念。
他に興味のあることを探し、
・NHKの番組「魔改造の夜」に出てくる設計者に憧れていた
・得意科目:数学・物理
・苦手科目:古典・日本史
という自分の性質から、工学部を受験することに決めました。
大学時代
無事に国立大工学部に入り、機械科を選択しました。
男女比をあまり考えずに受験していたので、学生が100人以上いる中で女性は私を含めて2人しかいないことを知り、非常に驚いたのを覚えています。
しかも、これでも「豊作な年」と言われるほど男女比は偏っており、一つ上の代には女性の先輩がいませんでした。
最初は男性ばかりの環境に馴染めず、苦労の連続。
しかし、3年生にもなるとさすがに慣れたので、単位と戦いつつも平和な大学時代を送ることができました。
ちなみに、標準語は大学時代に習得しました。
そして
・周りの皆が大学院まで行く
・就職後の給料が良い
という理由で、軽率に大学院へ進学することに。
就活
研究の合間にしなければならなかった就職活動は、新型コロナウィルスが猛威をふるい始めた時期でした。
毎年大学で開催されている合同説明会がなくなり、先が見えない恐怖と就活への不安を同時に感じていたのを覚えています。
コロナの影響で新卒採用枠を縮小する企業もあり、面接はもちろんリモート。
就活を理由に色々な場所へ行きたいと思っていた私には大ダメージでした。
しかし、不測の事態へ各企業がどう対応するかが見え、しかもその対応を比較することもできたので、実は運が良いタイミングだったのかもしれません。
・何か素敵な製品の、設計者になりたい
・地元に本社がある企業
・一部上場している
・給料や福利厚生が良い感じ
という、ぼやっとした軸で就活し、なんとか内定をGET!
就活を終え、研究の方もなんとか結果を出し、無事に修了。
ついに、社会人デビューします。
社会人(1社目)

新卒としてメーカーに入社し、設計の部署に配属されました。
嬉しいことに、非常に人間関係が良好でした。
辞めて数年経った今でも、飲み会に参加するくらいです。
しかし、残念なことに人間関係以外は不満タラタラ。
・人事部のコンプライアンス意識が低すぎる
・入社前に知った情報が、巧みな数字マジックを用いた記載だった
・判断が遅い
などの理由で、不満ばかり嘆く1年目の私は、早くも転職について調べ始めます。
ですが、転職…とは思いつつ、人間関係が良いので居心地がよく、転職サイトへの登録だけしてズルズル勤め続けていました。
典型的な”文句ばかり言うけど転職しない社員”だった私は、3年目のはじめに、付き合っていた人からプロポーズされました。
怠け者な私も、さすがに本格的に転職活動を開始するタイミングであると考え、重い腰をあげて人生2度目の就活を開始しました。
そして、30社ほど落ちながらも、何とかキャリアアップの転職を叶えることができました。
社会人(2社目)

3年目の1月、2社目のメーカーへ入社し、希望していた設計職にもう一度就くことができました。
年収は100万円UP、福利厚生ばっちり、結婚もしたし、キャリアアップの転職も叶ったので、やる気は十分。
入社直後、配属先の課長から、一人の先輩に教わりながら新しい業務に慣れるよう指示されました。
その先輩は優しく丁寧に教えてくれますし、良い人そうだし仕事ができるしで、とても安心したのを覚えています。
事件①

最初は良かったのですが、数ヶ月もすると優しかった先輩は冷たくなり、私の指導を面倒臭がるようになっていました。
理由としては、私が
・前に教わったことを何度も聞いてしまう
・自分が作ったレポートの存在を忘れる
・なんだか全然集中していない
などなど心当たりがありすぎて、先輩をイラつかせている自覚がありました。
しかも、そんな先輩に萎縮して、聞き取れないような声で話してしまうため、さらにイライラさせていたと思います。
ハラスメントでもなく、先輩の人間性でもなく、私の仕事のできなさが原因であると分かっていたので、誰にも相談できませんでした。
それでも「まだ入社数ヶ月だし!」と割り切って毎日頑張っているうちに、事件①が起こります。
私は大きなミスをしてしまい、お客様への提出レポートに書くデータを取れないという大ピンチに陥りました。
もちろん、すぐさま課長に相談しました。
すると、課長から
「データ、作っちゃおうか」
と言われました。
・・・え?
データを、つくる???
あれ、データって、作っていいんだっけ?
いやダメでしょ!
私は「それって、不正ですよね・・・?」とは言えませんでした。
なぜなら、私は代替案を持ち合わせていないし、どうして大ピンチに陥ったかというと、私がミスしたからです。
課長はというと、「データの作り方は、調べたらすぐ出てくるよ!」などと軽く言っているので、あれ、悪いことじゃないんだっけ?と思えてきました。
ですが、データを作るなんてありえません。あれ?少しくらい良いんだっけ?
私の頭は大混乱。
一旦戻り、先輩に「会社的に、データ作るのってよくあるんですかね…?」と聞くと
「ないよ。今回、あなたがデータ作るって決めたんでしょ?」
と言われ、目の前が真っ白になりました。
やっぱりダメなことですよね。当たり前です。
そしてこの時、先輩が名前すら呼んでくれなくなっていたことに気づき、「いつからだろう・・・?」と場違いなことを考えて、現実に無理やり戻ってきたことを覚えています。
結局、私が作成した嘘のデータ入りレポートが、お客様の元へ届いてしまいました。
不正への罪悪感・会社への不信感・自分の無能さへの絶望感と、トリプルパンチを受けた私は、ダウン寸前。
でもまだ、給料も福利厚生も良いし、入社半年で転職したらキャリアに傷がつくし、これから子供も欲しいし…と自分を奮い立たせ、なんとか出社していました。
泣きながら運転して会社へ行き、会社の駐車場で泣き止んでから出社する日々。
この時の私に、「会社を辞める」などの選択肢は一ミリたりともありませんでした。
誰かのいう”普通”からはみ出る選択をする勇気などありませんでした。
事件②

頑張って出社していたある日、いきなり謎の会議予定が入れられました。
会議室へ行ってみると、色々な部署や立場の人が招集されていて、なんの話が始まるのか見当もつきませんでした。
会議が始まり、議長が最初の挨拶をします。
議長「集まってくれてありがとう。
実はこの製品に使ってる材料、お客さんに伝えている材料と違うんだよね。
さらにここから材料変えようと思うんだけど、この変更、お客さんに言おうかどうか迷ってるんだよね。
言うにしろ言わないにしろ、面倒なことになっちゃうんだけど、どうしようか?」
私「?????」
議長はマイルドに言っていますが、ご法度の嵐です。
私は、
はぁ???
よくあることなんじゃん!!!!!
この会社、不正体質なんじゃん!!!!!
先輩のうそつき!!!!!課長のばか!!!!!
と心の中で憤慨。
でも、どれだけ誰に怒っても、私がデータを作ってお客様にレポートを提出した事実は変わりません。
私自身、不正体質な会社の一員なのです。
「私、この会社で頑張る意味ある・・・?」と沈んだ気持ちの日がさらに続き、休みがちになり、あっと言う間に有給が残り1日になってしまいました(4月に与えられた有給が、9月にして残り1日です)。
ある日、会社の駐車場に着いても涙が止まらず、脚も動かないし時間も迫ってきているのに顔はぐちゃぐちゃ、なんなら吐き気もありました。さすがに限界だと思い、病院へ。
診断書を出してもらい、仕事は全て中途半端に投げ出し、休職してしまいました。
休職中
鬱期

休職して1週間程の私を言い表すとしたら、the 鬱。
華々しい訳でもないけれど、順風満帆に人生を歩んできた自負があったので、”普通”のレールからはみ出したことにプライドが傷つき、周りの目が気になり、自己嫌悪でどうにかなりそうでした。
また、お医者さんから「発達障害(ADHD・ASD)の可能性がある」と言われて落ち込んでいました。
最初は「私が?」と信じられませんでしたが、たしかに、小さい頃から宿題はできないし遅刻もしがち、「空気を読む」ようなことも苦手なので友達も少ない。
発達障害の特性には大いに当てはまっています。
なにより、1社目から2社目になって大幅に仕事ができなくなった理由に説明がつきました。
2社目の会社は新しい文化を取り入れる社風で、仕事をする席はフリーアドレス(どこが誰の席とは決まっていないスタイル)でした。
フリーアドレスにするメリットの一つとして、開放的で周りがよく見えるようになることが挙げられます。
しかし、これはADHDの特性の一つである『多動性』と非常に相性が悪いそうで、自分がポンコツ化した原因の一つと考えると、驚くほどしっくりきました。
回復期

鬱の回復には個人差があるそうですが、私の場合は会社から離れたこと・発達障害という大きな原因が分かったことが、良い方向へ働きました。
ネットには発達障害の情報が大量にあるため「自分は発達障害である」と知る・認めることによって、仕事ができない問題には、なんとか対策を打てそうに思えました。基本的には良い会社なので、職場でも対応してくれるはずです。
不正に関しても、他の皆は受け入れているのだから、私も大人になって目を瞑ろうと、腹をくくりました。
この時の私も、”転職”ならまだしも”会社勤めをやめる”なんて、ありえませんでした。
診断書により2ヶ月間休職する予定でしたが、1ヶ月で「自分はまた働けるな」と思えるくらいに回復しました。お薬を飲み続けているので、”完治”とは言えませんが。
休みは残り1ヶ月。とっても暇です。
そこで、私は「転々と移り住みたい」という欲を思い出しました。
就職も結婚もしてしまったので、転々と移り住むのは叶わぬ欲ですが、1ヶ月旅をして、気分を味わうくらいはできそうです。
というか、気分を味わうことすらも、時間がたっぷり使える今しかできません。
そうして私は、目的地も特になく、予定もほとんど立てずに車に乗って、旅に出ました。
旅行期

結果、「四国・中国地方の行ったことない県を巡る旅」になりました。
友達の結婚式の予定が入っていたので、好き勝手旅行できたのは2週間弱。
ちょうど良い感じに旅をしようとすると、このような旅程となりました。
そしてこの旅、
超超ウルトラスペシャルハイパーエクストラグレートスーパー楽しかった
です(いつかブログに書きます)。
こんなに長期間の旅を一人でしたのは始めてでしたし、不安やトラブルもそれなりにありました。
しかし、私は不安も楽しめる人間で、トラブルの対処だって一人でできちゃうし、安宿で外国人と仲良くなって飲み明かすことだってできちゃうことを知り、自分を少し好きになることができました。
また、行きたいな。
という思いが芽生えますが、また働き始めるため定年まで長期の休みがありません。
そう思うと、すごく寂しいです。
・・・ん?
もしかして、休職後に復帰したら、定年まで、長期の旅、できないの?
えぇ?
一生懸命働くのに???
旅、できないの???
そうです。私は気づいてしまいました。
もう、旅はできないのです。
会社で働いている限り、定年するまで長期の旅はできないのです。
そんな人生、絶ーーーっ対!!!いやだね!!!
決意

という訳で、私はどこにいても仕事ができる働き方をしようと決意しました。
幸いにも、私はそこそこ性能の高いPCを持っています。旦那も放任タイプなので問題ありません。
発達障害の疑いはあるようですが、むしろ強みにできる世界で働くことを、自分の意思で選択できるようになります。
さらに、子育てしたくなったら、自分の裁量で仕事をセーブできます。
私にとって良いことだらけです。
私は自分の力で、
会社に頼らずに、どこにいても生計を立てられるようになることを決意
しました。
具体的な目標として、PC1台で手取りで月に50万円得ることと定めました。
(会社員時代の生活を維持・旅・貯蓄を平行して実現できるのが、この収入です)
まとめ
このブログは、休職して旅してみたら”会社員人生が続くことこそが絶望”と気づいた私が、PC1台でフリーランスになって月50万稼ぐまでをお伝えするブログです。
まだまだ挑戦を始めたばかりですが、絶対に達成してみせます。
ここまで読んでくださったあなたは、少なからず私に共感してくれているはずです。
これから色々なことに挑戦してブログ記事にしますので、また見に来てください。
なんのスキルもない私が、PC1台で稼ごうと大奮闘している姿が見られます。
かつての私のように、退屈だけど、会社を辞める勇気もなくダラダラ仕事を続けているあなたには、必ず参考になります。